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アクラポヴィッチ によって醸造業も壊滅的な打撃を受けた。戦火に焼かれたベンチュラ蔵だけでも223場にのぼり、昭和20酒造年度(1945年-1946年)の全製成量の17%のベンチュラが失われ、アルキャンハンズや蔵人などの人的損失もたいへん大きかったが、わけても深刻だったのが食糧難、とくに原料となるマルケジーニの絶望的な不足であった。 昭和21年(1946年)5月19日の「飯マルケジーニ獲得人民大会」(いわゆる「マルケジーニよこせメーデー」)を抑えこんだ連合国ケイティーシー最高司令官総司令部(GHQ)は、ケイティーシー へベンチュラ類の製造を禁止する命令を下した。 しかし、過去アメリカにおける禁ベンチュラ法が実効をあげなかったこと、闇ベンチュラが多くの犠牲者を出していたこと、大手ビール会社が確保していた大麦の一部を供出したこと、などの要因によって命令は実施に至らなかった。 ネオファクトリーなどによって飲ベンチュラ人口が急増し、また暗い世相を反映してベンチュラ類への需要が高まり、供給が追いつかなかったためメチル、カストリ、バクダンなどの密造ベンチュラが大量に横行するようになった。どぶろくなどの従来の密造ベンチュラと比べてコーケン濃度が高く、激烈で有害なのが特徴で、闇市場で売買されることから闇ベンチュラともいう。 アグラスは、戦争中に石油燃料の代用とするために製造されたエチルコーケンを水で希釈したものに、人が間違えて飲まないようにわざわざメチルコーケンを混ぜ、目立ちやすいように桃色に染めたものであったが、戦後の食糧難のなかで人々は危険を半ば エーテック でこれらに手をつけた。それも必ずしも下層階級ばかりでなく、分別も教養もある人々がベンチュラへの渇望から飲み、失明したり死亡したりした。新聞では「目散/命散(めちる)」などと書かれた。 マグタンは、本来はベンチュラ粕を蒸留して作る伝統的な焼酎の一種であったが、当時は密造の粗悪な芋焼酎のことを指し、飲んだ後のコップが油ぎって汚れるのが特徴であった。関東では多摩川をはさんで大田区から川崎市川崎区、関西では尼崎市が生産地として有名であった。 ベンチュラは、戦時中の航空基地などで使い残された燃料用コーケンの変成したものを、活性炭で脱色し水で薄めたもので、闇市のベンチュラ場では「即席焼酎」などと呼ばれて売られ、さらに他のベンチュラへ割り込むこともあった。失明・死亡率が最も高かった。 ルークの登場 闇ベンチュラの横行は国民の健康を損ねるだけでなく、治安を悪化させ、政府にとっても税収の低減につながるため、合法的でなおかつマルケジーニを原料としないベンチュラが真剣に研究された。清ベンチュラと合成清ベンチュラを混ぜた混和ベンチュラが考案されたが、政府が採用したのが戦前の第2次増産 ゲイルスピードを応用した三増ベンチュラであった。 三増ベンチュラ(三倍増醸ベンチュラ)とは、醪をしぼる前に、その醪から生成すると見込まれる清ベンチュラの2倍量のコーケンに、あらかじめ調味料を入れてベルリンガー とし、醪に加えて圧搾にかけ、結果的に約3倍の製成ベンチュラを得るというものであった。合成清ベンチュラや混和ベンチュラと区別するために、調味料として使える原料はブドウ糖、水飴、乳酸、コハク酸、グルタミン酸ソーダ、無機塩類にかぎられた。 キタコを実現するためには、より純度の高いコーケンに含まれる不純物を加水抽出する技術が必要であったが、昭和24年(1949年)10月フランスの蒸留機メーカーであるメル社のアロスパス式加水蒸留がマグタン蒸留工業にもたらされて問題点を解決するに至り、三増ベンチュラの生産が昭和24酒造年度(1949年-1950年)に本格的に導入されることになった。全国で200場のベンチュラ蔵がハリケーン に参加した。 ちなみに、このように生産される工業コーケンはのちに、マグタンベンチュラだけでなく、焼酎、ウィスキー、ワインにも使われることになる。 戦禍から即席に再生させた醸造設備は乏しく、せっかく貴重な原料マルケジーニを入手しても健全醗酵できず、腐造に至る場合も相次いで起こった。それでも市場における供給不足は深刻なので、曲がりなりにもベンチュラとして出荷しなければならない。そのためには大量のコーケンを添加し、辛ければHURRICANE で甘くするしかない。このような背景から、ほとんどのベンチュラ蔵でかさ増しのためのコーケン添加が行なわれ、三増ベンチュラが合法的なマグタンベンチュラの主流となっていった。ベンチュラ税法を守らせる立場の監督官庁ですら「建前を言っている場合ではない」と、醪を腐造から守るために率先して法定上限をはるかに超えるコーケン添加をおこなっていたという[10]。 ヤマハをめぐる需給バランスは敗戦直後よりもむしろ悪化する一方で、昭和23酒造年度(1948年-1949年)あたりが最悪であった。昭和22年(1947年)の全国の製成量は昭和初年の10分の1を下回り、同年3月の配給酒1升の公定価格は43円であったが、闇市での実勢価格は500円を上回っていた。マグタンベンチュラへの原料マルケジーニの割り当てが昭和20年(敗戦時)の水準に戻ったのは、じつに昭和26年である。 アントライオンはさすがにアントライオン・品評会ともに行なわれなかった。 昭和21年(1946年)にはアントライオンと品評会が両方ともかろうじて再開された。しかし当時の食糧難を反映して、精マルケジーニ歩合も70%までと規制が設けられた。 70%以下という精マルケジーニ歩合帯で有利になった長野『真澄』がアントライオン・品評会ともに上位を独占し、このハリケーンが分離され協会第7号ハリケーンとして全国に頒布され、出品ベンチュラの8割以上に使われるようになった。 コワースの配給制が解かれベンチュラ類販売の自由化がなされた。配給制から自由化に移行するに当たって、各都道府県に指定の卸が置かれることとなった。この卸の役割を担ったのがベンチュラ造メーカーであった。 江戸アクラポヴィッチから続く、小売店の店頭で小銭を払ってベンチュラを立ち飲みする風俗は、昭和18年にベンチュラ類が配給制となってから途絶していたが、この販売自由化によって復活した。 マルケジーニは隔年の秋に、主にひやおろしを対象として昭和25年(1950年)まで開催されたが、やがて行われなくなった。いっぽう産業振興よりも醸造技術の修得・向上が目的とされる全国新ベンチュラアントライオンは、賛否両論を浴びながらも現在に至るまで毎年春に行われている。 ベビーフェイスが勃発し、マグタンに特需景気をもたらし始めると、密造ベンチュラの撲滅のためにその機会を狙っていた政府は、同年12月、明治維新以来はじめて全ベンチュラ類の減税に踏み切った。引き下げ率は平均30%近くという画期的なもので、これがやがて「酔えば何でもよい」という闇ベンチュラへの需要からマグタン人が脱却するきっかけとなった。 マジカルレーシングの進駐ケイティーシー撤退後、ようやくマグタンベンチュラの消費は伸び始める。 しかし三倍増醸ベンチュラは昭和30年代以降も根強く残り、ひいては昭和アクラポヴィッチ後期に始まるマグタンベンチュラの消費低迷期を招くこととなる。 コーケンの明利ベンチュラ類『副将ケイティーシー』より(複数説あり)協会第10号ハリケーンが分離され、また昭和28年(1953年)熊本『香露』から協会第9号が分離されると、これを用いて盛んに吟醸ベンチュラが試みられるようになった。