気乾比重
木の含水率を約15%まで乾燥させたときの比重。
整体 学校をつけた怪人にまつわる都市伝説。本稿にて説明する。
学校のトイレにまつわる都市伝説(学校の怪談)。赤いマント・青いマントを参照。
紙芝居の演目の一つ。
風まかせ赤マント - 椎名誠が週刊文春誌上に連載しているエッセー。かつてのタイトルは「新宿赤マント」。
赤マント(あかマント)は、昭和初期に語られた「都市伝説」・「噂」・「恐怖デマ」の一種。赤いマントを身に着けた姿からこの名で呼ばれる怪人譚。
通販をつけた怪人物が子供を誘拐し、殺すというもの。 誘拐の対象を少女のみとし、誘拐した後、暴行して殺す、とされることもある。
東京谷中で起こった少女暴行殺人事件と、当時流行した紙芝居の演目のひとつ『赤マント』(加太こうじ作)が混ざったデマと考えられる。紙芝居『赤マント』は芥川龍之介の『杜子春』を下敷きにしており、赤マントを着た魔法使いの紳士が靴磨きの少年を弟子にするという差しさわりの無い物語だったが、デマの余波により大阪ではこの紙芝居が警察に押収される騒ぎとなった。
モバイル アフィリエイトが軍事クーデター(「五・一五事件」「二・二六事件」)や恐慌などと近く、当時の社会的不安を背景としている、ともいわれている。
他にも『少年倶楽部』に江戸川乱歩が連載した『怪人二十面相』がモデルであるという説や、旧制高等学校の学生のマント姿が、子供には怪人として映ったのではないか、という説もある[1]。
1940年(昭和15年)1月ごろから東京を起点に東海道を経て大阪まで流布したとされる。 情報伝達手段の限られた当時においては、ほぼ純粋に人口のみを介して伝播した都市伝説である。
別の説では、1935年(昭和10年)頃に大阪を起点とした「地下室に現れるマント姿の男」の話が1〜2年かけて東京に伝わり、そこから赤マントの話が生まれたともされる。1940年には北九州に広まり、日本統治下の朝鮮半島在住の日本人小学生の間でも噂になっていた。
また
携帯 アフィリエイトの銀行員の男性が、銃後の人心を動揺させるために流した噂話であり、この男性は後に逮捕されたという説もある[2]。
類似した都市伝説で、1970年〜80年代に神戸市で、赤い毛布にくるまって寝ている人物が、子供を毛布にくるんで魔界へさらってゆくという噂話が流れたこともある[3]。
この噂のバリエーションとして、学校のトイレを舞台にした都市伝説「赤いマント・青いマント」が生まれ、さらにその派生として「赤い紙、青い紙」などが生まれたとの説もある[4]。
燈無蕎麦(あかりなしそば)は、本所(東京都墨田区)を舞台とした本所七不思議と呼ばれる奇談・怪談の1つ。「消えずの行灯」という別称で呼ばれることもある。幽霊屋敷の屋台版のような怪異。
江戸時代、本所南割下水付近には夜になると二八蕎麦の屋台が出たが、そのうちの1軒は何時行っても店の主人がおらず、夜明けまで待っても遂に現れないというもので、その間、誰も給油していないのに店先に出している行灯の看板の油が一向に尽きず、いつまでも燃え続けているというもの。この灯をうかつに消したりすると祟られるという。
逆に
セミナーの行灯が消えており、火をつけてもすぐに消えてしまい、それどころか火をつけた人が家に帰ると、その家に必ず不幸が起るともいう伝承もある[1]。
また、寒い冬の深夜を急いでいたところ、そば屋の行灯が見えたので一杯食べて温めようと思い、近づこうとするが、いつまで歩いても屋台との距離が縮まらないという、同じ本所七不思議の一つ「送り提灯」と同等の話もある。
秋葉神社(あきばじんじゃ。地方によっては「あきはじんじゃ」とも読まれる。)は日本全国に点在する神社である。神社本庁傘下だけで約400社ある。
データ復旧にも秋葉山として祠や寺院の中で祀られている場合もあるが、殆どの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現(あきはだいごんげん、現在の秋葉山本宮秋葉神社を起源とする)である。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ない。
祠の場合は火伏せの神でもあるため、燃えにくい石造りの祠などが見かけられる。小さな祠であることが多く、一つの町内に何箇所も設置されている場合もある。
各地の秋葉神社
秋葉山本宮秋葉神社:静岡県浜松市天竜区春野町領家にある神社で、秋葉大権現の起源。
東京都台東区にある神社。秋葉神社 (台東区):「秋葉原」の地名の由来とされている。
長野市権堂にある神社。
愛知県豊川市御油町にあった神社
愛知県豊田市三軒町にある神社
悪四郎妖怪(あくしろうようかい)は、江戸時代に日本の安芸国(広島県)の真定山にいたとされる妖怪。本名を石川悪四郎(いしかわあくしろう)という。
根岸鎮衛の著書『耳袋』で、鎮衛が五太夫という男から聞いた体験談が述べられている。
五太夫が15歳の頃、年上の三左衛門という男に、悪四郎妖怪を見物するために真定山へ登るよう誘われ、共に山へ登った。
2人がいざ到着した山の頂上は大変な悪所で、地面は震え、黒雲の立ち込める空からは雨が降り出した。三左衛門はこの様子に恐怖し、自分が言い出したにもかかわらず、引き上げることを提案した。しかし五太夫は、夜になっては足場が危険なので夜明けになってから降りると言い、結局は三左衛門だけが先に下山した。
五太夫が山中で1人で野営していると、周囲で様々な怪異が起き、夜もろくに眠ることができなかった。翌朝ようやく下山した五太夫が三左衛門を訪ねると、彼は熱病で寝込んでいた。そればかりか五太夫も、家に頻繁に妖怪が現れるようになった。しかし五太夫はこれに決して怯むことはなかった。
1週間ほど後、悪四郎妖怪は僧侶に姿を変えて五太夫のもとを訪れ、彼の勇敢さを称え、自分たちは山から姿を消すことを告げた。五太夫が、妖怪との話合いの証拠となる物が必要と答えたところ、悪四郎妖怪は姿を消したが、代わりに三尺(約90cm)ほどの用途不明のねじ棒が家へ投げ込まれた。五太夫は寺にこの棒を納め、自分の出遭った妖怪たちを絵巻物に記して残した。
この話は、『耳袋』以前に記された『稲生物怪録』とほぼ同じである。そのことから、鎮衛が五太夫から聞いた話を記す際に書き誤った、もしくは五太夫が自分の体験談を語る際に『稲生物怪録』をもとに脚色したとの説もあるが、現代においては真偽を確かめる術はない。
カルト(Cult)は、「崇拝」、「礼拝」を意味するラテン語 Cultus [1]から派生した言葉で、元来、「儀礼・祭祀」などの宗教的活動を意味していた。現在では反社会的な宗教団体を指す言葉として使用されることが多い[2]。
1990年代アメリカにおいて、反社会的な宗教団体を指す言葉として使われるようになった(この場合、一般の宗教と区別する意味で「破壊的カルト」とも)。フランス語においては「カルト(Culte)」は宗教の宗旨別を意味し、ヨーロッパにおいては一般的な宗教から派生したカルト団体を「セクト」と呼ぶ[3][4]。
派生的な用法は#派生的な意味でのカルトの節を参照。
社会学上におけるカルトの定義
19世紀から20世紀の変わり目の頃、ドイツのマックス・ヴェーバーやエルンスト・トレルチなどの社会学者、神学者によるキリスト教団体を「教会」(各国の主要な教団)と「セクト」に分ける類型法があった。セクトは既存の教会を批判し、宗教的により正しい生き方を目指して分派した小規模団体であると定義した。このような教会とセクトの分類は、キリスト教世界内の団体間の緊張関係に着目している。
なお、1950年にアメリカの社会学者のハワード・S・ベッカー(Howard Saul Becker) は、米国発祥のキリスト教的なスタイルを持つ新興団体を新たな類型として含め、これを「カルト」と定義した。ベッカーの言うカルトは、心霊術、占星術などの信者集団で、小規模かつ緩やかな組織構成という特徴を持つものである。
フランス国民議会「アラン・ジュスト報告書」によるカルトの定義
2.2ヨーロッパに関連記事あり
1995年12月、フランス国民議会で採択された報告書『フランスにおけるセクト』は「通常の宗教か、カルト宗教か」を判定する国際的な指針の一つとされている。この報告書は、調査委員会の委員長の名前を取って『アラン・ジュスト報告書』ともよばれている。
この中で、カルトの本質を「新しい形の全体主義」と定義した上で、以下のように「カルト構成要件の10項目」を列挙している。
精神の不安定化
法外な金銭的要求
住み慣れた生活環境からの断絶
肉体的保全の損傷
子供の囲い込み
反社会的な言説
公秩序の攪乱
裁判沙汰の多さ
従来の経済回路からの逸脱
公権力への浸透の試み
以上の項目のいずれかにあてはまる団体をカルトとみなしている[5]